パラグラフテキスト |
沖縄の地酒・泡盛。米と黒麹菌で作られる蒸留酒だ。3年以上熟成させた古酒は「クース」と呼ばれ、かつては100年を超えるものも珍しくなかったという。酒造所は依頼者・裕子さんの曽祖父・宗道さんが戦後に創業。何度も繰り返した言葉が「いずれ古酒の時代がくるからとにかく頑張って古酒を造って寝かせておきなさい」。昭和50年に他界した宗道さん。その心の内を解き明かすことができるのか。調査の手がかりとなるものを裕子さんが見せてくれた。それは新聞の死亡広告。平成21年に亡くなった「當眞竹子」さんのものだった。親族のもとをたずねる。竹子の息子の妻・信子さんから話を伺うことができた。琉球王国時代、酒造りが許されたのは首里地区のみ。昭和のはじめは70弱の酒造所があり、當眞家その1つだった。竹子は泡盛の製造に欠かせない麹づくりの職人。当時は機械もなく手で触れた感覚で黒麹菌が活性化する温度を管理していたという。昭和20年、沖縄で地上戦が始まると、竹子は子どもを連れ疎開。しかし竹子の義母は酒を守るために残ったそう。最後には逃げたが途中で亡くなった。琉球泡盛研究家の萩尾俊章さんによると、戦時下ではクースを残そうと同じような行動をとった酒造所が多くあるという。終戦後、ほとんどの酒造所は壊滅。土に埋めたクースのかめも割れてしまう。発酵に欠かせない黒麹菌も喪失。他の菌では変わりがきかず、泡盛は危機にひんした。そんななかである奇跡がおこる。酒造会社を経営する佐久本政良さんが焦土のなかで見つけたのは焼け残ったむしろに付着した黒麹菌だった。政良はそれを増やし無償で提供しようと考える。政良の息子・勝さんによると、そこで貢献した人物がいたという。竹子は酒を守ろうとして亡くなった義母の志を継いでいた。當眞家での泡盛づくりは断念したものの、他の会社を手伝い手で覚えた温度管理などを伝える。そんな竹子をぜひにと招いたのが酒造りは素人だった山川宗道だった。明治27年、現在の本部町で生まれた宗道。大正3年、二十歳のころ苦しい暮らしから抜け出そうとペルーに移民する。我慢を重ねて資金をため、しょうゆ工場を始めた。異国での苦労が故郷への思いを強くした。今もペルーで暮らす義理の妹・静子さんは「宗道さんはふるさとをとても大事にする。本部町はとても沖縄は大切にする。いつもその気持ちはある。」と話す。昭和のはじめ、しょうゆ工場が軌道に乗ると弟に任せて宗道は帰国する。戦争で甚大な被害を受けた沖縄。宗道が酒造りを始めたのは大好きな故郷の誇りを取り戻そうとしたのかもしれない。クースは琉球王国時代から海外の珍客や江戸幕府をうならせた宝の酒だった。宗道が立ち上げた酒造ではその思いを受け継ぎ、クースづくりに力を注いでいる。裕子さんは「すごい。色々苦労したんだろうなと思う。戦前に帰ってきているみたいなので沖縄戦も体験して、いろんなことを見て平和の大切さを実感したんだろうなと思う。」などと涙ながらにコメントした。 |