パラグラフテキスト |
中川陽介さんの投稿を調査。中川さんは生まれも育ちも東京で13年前に居住し糸満で農業をしている。母から内地から沖縄へ来て仕事をしていたという話を聞いた。そこでわらにもすがる思いで番組に投稿したという。沖縄南部の特産品、さやいんげんとトマトを栽培。気になる曽祖父は勅使河原溥。勅使河原溥は洋介さんの母方の曽祖父。写真の下には文字が書かれていた。明治38年、那覇女子技藝学校、博設立の学校と読める。沖縄の女性は琉球王国の時代、商売や家事をしながら家のなかでしつけを受けて成長。明治になってもその風潮は変わらなかった。長い間、女性は教育とは無縁だった。沖縄で勅使河原博は1862年の生まれ。生まれた場所は岐阜・大垣市。現地を訪ねると孫が見つかった。勅使河原正海さん(78)。溥の書いた履歴書を持っていた。明治19年、中学の教員免許を東京師範学校でとったと書かれている。東京師範学校を卒業するということは明治政府が求める教育を普及させる大きな役割を担っていたのではという。溥は20代で興文尋常高等小学校の校長となる。勅使河原溥は近代化の波としていち早く新しい授業を始めた。イギリスから教師を招き、英語を教えた。彦根市立城東小学校では運動会を始めた。明治38年、溥は42歳で沖縄へ赴任。女子就学率が沖縄は極端に低かった。明治30年代になると就学率は上昇。その結果、子どもは学校で学び、母親は読み書きができない状況となり問題視されるようになった。明治38年9月11日の琉球新報。女子技藝学校開校式、勅使河原溥が熱心に計画中だったと書かれている。対象となる生徒は学齢期を過ぎた婦女子でそれまで教育を受けられなかった者。和服裁縫や編み物、国語、算術などを教えた。勅使河原溥の教育は琉球文化を否定する一面もあったという。多くは夫のある婦人で幼児を抱いて通う生徒もいた。アンマー(母親)の学校と呼ばれたという。のちに日本化の問題も指摘されるが女性たちが学ぶ喜びを知ったのも確かなこと。那覇女子技藝学校は勅使河原溥が独力で私財を投げうってまで経営したという。沖縄の女性の役に立ちたいという気持ちは純粋なものだった。那覇女子技藝学校は沖縄県立第二高等女子学校となった。沖縄戦のとき、生徒たちが白梅学徒隊の看護婦として従軍したことが知られている。技藝学校が軌道に乗ると岐阜に戻る。岐阜市立岐阜小学校で58歳まで校長を務めた。中川さんは映画の仕事をしていたという。今も映画の関係のことをしていて沖縄の若い人と何かやるのが楽しいという。 |