番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20230212 > エピソード: 1621473

エピソード情報

放送局 NHK総合
プログラム名 英雄たちの選択
エピソード名 スペシャル 戦国のプロが選ぶ 徳川家康・平和への選択
カテゴリ 教育教養
放送時間 2023-02-12 01:05:00 〜 2023-02-12 03:05:00
WireActionデータ更新時刻 2023-02-12 10:50:06

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=14113500]
今回は… [topic=20894154] 詳細
[ 01:05:00 - 01:08:20 ] 200秒 詳細
戦国乱世に終止符を打ち、約260年間の平和を実現させたといえるのが徳川家康。75年の生涯を振り返ると、両親との死別、人質、関ヶ原の戦いなどその人生は激烈といえる。番組では戦国時代に詳しい50人以上の歴史のプロにアンケートを実施し、家康の運命を決めた出来事をランキング付けした。さらに当番組のナレーターで、「どうする家康」に出演する松重豊も参戦する。
オープニング [topic=20894155] 詳細
[ 01:08:20 - 01:08:50 ] 30秒 詳細
オープニング映像。

戦国のプロが選ぶ 徳川家康・平和への選択 [corner=14113501]
家康 平和への選択 10位 今川家での人質生活 [topic=20894156] 詳細
[ 01:08:50 - 01:16:51 ] 481秒 詳細
番組では歴史家、研究者、作家など57人にアンケートを行い、徳川家康が下した運命の選択ベスト10を発表する。10位は「今川家での人質生活」で、作家の伊東潤氏は「空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった」、蝦名裕一氏は「少年から青年になるまでの過程で、文化の成熟した駿府で過ごした経験は非常に重要と考えられる」と話す。松平家は家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げるも、今川、織田に挟まれていた。竹千代(のちの家康)が3歳のときに両親が離縁し、8歳の時に父・広忠が家臣によって暗殺された。今川義元は竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配。人質生活は8~19歳まで続いた。僧侶でありながら今川家の重臣だった太原雪斎が教育係を務め、英才教育を施された。また、三河の家臣たちは厚い忠義を有し、家康は涙を流したとされる。
[ 01:16:51 - 01:22:20 ] 329秒 詳細
小和田哲男名誉教授は今川家の人質だった徳川家康だが厚遇され、教育係の太原雪斎は今川義元を育成し、軍師でもあったなどと説明した。萱野稔人氏は所領の少なさから艱難辛苦に喘ぐ家臣たちに申し訳無さを覚え、出世を決意したのでは推測する。中野信子氏は「環境の激変を経験した徳川家康のように多様な価値観を経験している方が前頭前皮質が厚くなる傾向はある」と語った。磯田道史氏は三河に戻ると、家臣たちから歓呼して迎えられるなど、家康はカリスマ力を持っていたと話す。
家康 平和への選択 9位 大坂の陣 [topic=20894157] 詳細
[ 01:22:20 - 01:29:35 ] 435秒 詳細
平和への選択9位:大坂の陣。家康にとって天下統一の総仕上げで、75歳で亡くなる2年前に起きた戦い。豊臣秀頼、徳川の両軍合わせて10万人の死者を出したとされる。家康は豊臣方と和議を結んだ後、大坂城を囲む堀を埋め立て、城攻めを行うことに。これは小田原攻めで豊臣秀吉が用いた策謀を模倣したものとされる。1615年の夏の陣で、家康は甲冑を身に着けないほど余裕を見せていたというが、真田信繁率いる軍勢の猛攻を前に自害を決意したという。だが、形勢は逆転し、大坂城は炎上し、秀頼は自刃。勝利から2ヶ月後、家康は年号を元和と改めた。中国大陸で唐が内乱を平定した際に用いた元号でもあり、戦乱の終焉を宣言したといえる。
[ 01:29:35 - 01:33:15 ] 220秒 詳細
小和田氏は豊臣家が生き残れば、徳川に刃向かってくる勢力が擡頭すると考えられ、晩年の家康からすれば豊臣家の滅亡が必要だったと話す。平山優氏は大阪城から出るよう秀頼に迫るも応じなかったことから、豊臣家は自滅したと言えるという。磯田道史氏は織田、豊臣と違い、家康の松平家は9代続く家柄で、存続させなければならない価値観を抱いていたと語った。中野信子氏は自制心と将来の社会的成果の関連性を調査した「マシュマロ実験」を紹介し、家康は間違いなく待てる人と予想した。
家康 運命の選択 8位 長篠の戦い&7位 信康事件 [topic=20894158] 詳細
[ 01:33:15 - 01:45:15 ] 720秒 詳細
8位 長篠の戦い。7位 信康事件。どちらも、信長と武田、三つ巴の戦いだった。長篠の戦いは家康34歳。織田・徳川の連合軍が描かれている。織田軍は後方にいる。前線には徳川の軍勢がいる。武田との雌雄を決する戦さであった。1575年、家康は窮地に陥っていた。武田勝頼が長篠城を包囲。その数1万5000。わずか8000しか用意できなかった家康。織田信長に要請。自ら軍を率いて出陣した織田信長。その数3万。連合軍は3万8000となった。信長は秘策を持ち込んでいた。武田の騎馬隊に対し、最新の武器だった鉄砲を放った。3000丁とも言われる。山県昌景や馬場信春を討ち果たした。信長の鉄砲と兵により、家康は勝利することができた。信長のちからにすがったことで、家康はジレンマに陥る。長篠の戦いから四年後に起きた信康事件。このとき家康は38歳。家康は同盟相手の信長から思わぬ命令を受けた。信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよと。家康の嫡男である松平信康は、21歳。息子の命を奪えというのだ。家康の正室である築山殿も殺すよう命じた。そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだという。近年、新たな見方が浮上している。武田と徳川の戦争は一進一退の膠着状態が続いていた。信康は、武田方に内通していた。父・家康の路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたという。家康としてはどちらにいくべきなのか、立場をはっきり示さなければならない。家康は選択を迫られた。武田に寝返るか、織田との同盟を続けるのか。ジレンマの中で、苦渋の決断。築山殿を殺害し、信康に切腹させた。織田との同盟を継続したのだ。長篠の戦いは西と東の戦いだ。信長は畿内を押さえ、南蛮貿易を押さえた。鉄砲の火薬の硝石はすべて輸入に頼っている。武田の両国から出ている弾は、鉛弾がほとんどなく、青銅の弾ばかりだ。織田徳川連合軍はアメリカ、武田軍は日本ということになる。信長は大量の火薬と訛りの調達をできた。その支給を受けているのが家康だった。内陸の東国の武田と、畿内と南蛮貿易を押さえていた織田の差だ。7位の信康事件は、従来の研究とは異なっている。信康は岡崎城の城主だった。父と息子の路線の違いがあった。義信事件と同じだという。一般的な人は関係性を自分の欲よりも重視する。家康は凡人中の凡人だったとのこと。信長や秀吉のようにサイコパス気質とは違っている。人間らしい人だ。しかし一般の人の方が怖い。一般の人がモンスターになったときの方が怖い。社会性を優先したときに自分のもっとも大事なものを差し出せる。いちばん怖いタイプの人が家康だとのこと。長篠の戦いも信康事件も、30代の後半だ。重要な選択を迫られていた。大事なものを差し出したから、絶対天下をとってやると思ったのかもしれない。
家康 平和への選択 6位 三河一向一揆 [topic=20894159] 詳細
[ 01:45:15 - 01:54:25 ] 550秒 詳細
22歳の家康を襲った家臣団分裂の危機。それが三河一向一揆だった。愛知・豊田市の隣松寺に20代前半と伝わる家康の木造がある。この頃、三河統一に向け着々と勢力を拡大していた家康。しかし、一向宗の門徒たちによる一向一揆が現れる。きっかけは家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことと言われる。これに一向宗の門徒が反発。武装集団が一斉に放棄した。さらに一揆方に一向宗門徒の家臣たちが沢山いた。家安渦中は内部分裂に陥った。永禄7年(1564)1月、大規模な武力衝突が起きる。一揆勢が家康方の砦に攻め寄せた。乱戦の最中、銃弾2発が家康に命中。鎧が頑丈だったため命拾いした。しかし、戦いを続ければ大勢の家臣を失うのは間違いなかった。この時、一揆方と和睦し穏便に済ますか、徹底抗戦するか2つの選択肢があった。家康は一揆方と和議を結び敵対した家臣たちを不問に処することにした。許された家臣の中には後に徳川十六神将にも数えられる蜂屋半之丞や渡辺守綱など家康の躍進に欠かせない人材が多数含まれていた。後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信も元は一揆の首謀者の1人。今川家での人質生活で家康は一生の基礎となる高い教養を身に着け、大坂の陣では安定した社会を作るための盤石の体制を整える大局観を、長篠の戦いでは信長から経済力も含めた戦略眼を学び、信康事件では目的を完結するための冷徹さを、三河一向一揆では家臣の心の内までは支配しない緩やかさを学んだ。
戦国のプロが選ぶ!家康家臣ランキング [topic=20894160] 詳細
[ 01:54:25 - 02:03:40 ] 555秒 詳細
家康を頂点に十六名の家臣が描かれた図像を「徳川十六神将図」と呼ぶ。家康の家臣団の中で最も優秀な人材は果たして誰か。歴史のプロが選んだ家康を支えた家臣ベスト10。10位:三浦按針、9位:服部正成、8位:大久保長安、7位:石川数正、6位:榊原康政。三浦按針と大久保長安は貿易や経済力で家康を支えた徳川家のテクノクラート。石川数正は人質時代から家康と苦楽を共にした重鎮。国宝の松本城を築造したことで知られるが、家康を裏切り豊臣秀吉の元に出奔した謎多き人物でもある。実は今年の大河ドラマでこの役を演じるのが俳優の松重豊さん。「英雄たちの選択」では放送開始当時からナレーションを担当している。「石川数正は「徳川四天王」にも「十六神将」にも入っていない。謎に包まれているので評価としては分かれるのは当然。評価の分かれるところが役者としてやりがいがある部分。7位というのは僕としては嬉しい数字」と話した。5位:鳥居元忠。伏見城の戦いで戦死した三河武士の鏡と言うべき人物。4位:酒井忠次。徳川家筆頭の重鎮として軍事はもちろん外交や政治の表舞台でも活躍。3位:本多正信。三河一向一揆で一時は家康と敵対したが許され家康の名参謀となる頭脳派の家臣。家康が亡くなった2ヶ月後に正信もその生涯を閉じた。影の立役者として家康と共に歩んだ一生だった。2位:本多忠勝。敵から家康に次たるものと称賛された武勇に優れた猛将。13歳で初陣を果たし生涯50もの合戦に参陣したにも関わらず傷一つ負わなかったという。戦国時代を代表する天下無双の武将。1位:井伊直政。三河以外の出身でありながら家康から家臣の中で最大の領地を与えられた武将。直政率いる赤備えは徳川軍の花形。数多の合戦で手柄を立てた。直政の評価は武功だけでなく戦場以外での活躍でも及んだ。
家康 運命の選択 5位 本能寺の変と伊賀越え [topic=20894161] 詳細
[ 02:03:40 - 02:13:45 ] 605秒 詳細
天正10年6月2日に家康は家臣と堺に武田攻めの労をねぎらうよう招待されている中本能寺の変で信長が死去し、後を追うように家康が切腹を迫るも本多忠勝・酒井忠次ら家臣の言葉で思いとどまったという。我に返った家康は三河に戻る道中に木津川を渡るも数百人の地侍が家康一行を襲撃した。それを受けて服部半蔵正成の仲介により地元の伊賀衆数百人が家康の警護を買って出たことで家康は岡崎城に戻ることができた。幕府の記録には伊賀越えが家康の生涯艱難の第一だと記されている。専門家は家康は信長の同盟者で光秀からしても敵であり、伊賀も天正伊賀の乱があったことから信長に反感を持っていた等と話す。
家康 平和への選択 4位 小牧・長久手の戦い [topic=20894162] 詳細
[ 02:13:45 - 02:23:10 ] 565秒 詳細
4位、小牧・長久手の戦い。徳川家康と豊臣秀吉の唯一の直接対決。千田さんは「圧倒的な豊臣軍にどう立ち向かうか家康の戦略が光る。野戦の銘酒のイメージはその後の家康にとって重要な意味を持った」との意見。秋本さんは「この合戦により、秀吉に進化として従ったものの、No.2としての地位が固まったことで、秀吉亡き後は家康が実質的な後継者となる状況が整ったとも言える」という意見。本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も巻き込まれることになる。畿内を中心に急拡大を遂げていた羽柴秀吉と対立することになった。徳川軍2万に対し、羽柴軍10万と明らかに秀吉が優勢だった。だが戦いは両者の和睦で幕を閉じた。愛知県の小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城。かつては信長の居城でもあった山城。いかにして秀吉軍に抗ったかの痕跡が残っているという。敵を迎えうつために築かれた高さ8mもの土塁。当時は、城を取り囲むように堀が築かれた。さらに山の中腹にも横堀を築き、二重の堀で鉄壁の防御を施した。元々は信長の城があり、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城だった。しかし、まだ高く積むことができなかったため、家康は信長の作った石垣を一部壊しながら一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていたのがわかるという。にらみ合いをしていた両軍が先にしびれを切らしたのは羽柴軍。秀吉の甥・秀次が大将となり約2万の兵が密かに南下し、三河への侵攻を試みた。だが、動きを察知した家康が密かに追撃。決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。戦いの様子が、六曲一隻の屏風絵に残されている。家康の所在を示す金地に日の丸の扇が掲げられ、戦意を喪失し、長久手の戦いは家康の圧勝に終わった。その後7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い。5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで家康強しの評価が轟き、これが豊臣政権下でNo.2の地位を確立するステップとなったという。
家康 運命の選択 3位 関ヶ原の戦い [topic=20894181] 詳細
[ 02:23:10 - 02:25:06 ] 116秒 詳細
3位は「関ヶ原の戦い」だ。秀吉の死後、遺児秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいた。5大老筆頭家康と五奉行の石田三成が対立、武力衝突にまで発展した。慶長5年9月15日、家康率いる東軍と三成の西軍、両軍計10万余が関ヶ原盆地に集結した。戦いは、家康が事前に調略を仕掛けた西軍武将らが次々に味方したことで決した。わずか数時間で決着がついたとも。だが、戦いの勝敗は直前までどちらになるか分からなかった。
[ 02:25:06 - 02:28:04 ] 178秒 詳細
関ヶ原周辺で航空レーザー測量が行われ、関ヶ原古戦場から西に約2kmの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったことが明らかになった。地元には、関ヶ原の戦いの200年以上前城があったという言い伝えが残されていた。今回明らかになった城の規模からは、最新の築城技術が用いられていたことが判明。この山城は豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられる。もし秀頼が玉城に入城を果たしたら、豊臣恩顧の武将らで構成された東軍は秀頼に刃向かえず、家康は敗北したと推測される。
[ 02:28:04 - 02:33:15 ] 311秒 詳細
磯田は「ハプニングの連続で家康はもう一度やりたくないだろう」という。平山は「家康が率いる軍勢が圧倒的優位に立った戦いは大坂の陣だけ。常に少数派で戦っている。関ヶ原の戦いは西軍が圧倒的優位で、黒田如水をはじめ多くの武将らは5~10年以上続くと考えていた。1日で勝負が決まるとは思っていなかった。運が良かった」という。中野は「運の良さは平等だが、掴めるやつと掴めないやつがいる。掴めるやつは、外向性が高い。家康はそっちの方向に自分を持っていこうとする節がある。人の運ぶ運で勝つというのが象徴的にあらわれたのがこの戦い」と述べた。小和田は「関ヶ原の戦いで家康が勝ったことにより、西軍大名の88家を取り潰す。その石高約400万石を、家康は再配分する権利を得た。これが大きい。これで家康の最終的な勝利が決まった」という。磯田は「家康が天下をとった段階で、2万石の領地の本多正信が天下人の政策を立案する」と述べた。小和田は「権限がある者には禄高は少なく、禄高が多い者は権限を与えないという権と禄のバランス。この仕組みが幕藩体制の骨格。それができたのが関ヶ原」と述べた。萱野は「幕藩体制は世界史的に見ても経済が発達した。資本主義的な経済の萌芽が生まれた。資本主義の原理は、政治権力と経済の切り離しだ。政治と経済の分離の体制を家康が作り上げた」という。
家康 運命の選択 2位 桶狭間の戦い [topic=20894182] 詳細
[ 02:33:15 - 02:38:28 ] 313秒 詳細
2位「桶狭間の戦い」だ。永禄3年5月、今川義元が1万以上の大軍で織田信長のいる尾張を目指していた。この時、今川軍の先陣には若き家康がいた。義元の命令で家康は本隊から先行し、今川方の大高城へ兵糧を搬入。だが、桶狭間にいた今川本隊を信長が2000足らずの兵で急襲、義元を討ち取った。大高城にも織田軍が攻めてくるだろうが、家康には今川の駿府へ戻るか、故郷の岡崎へ帰るか2つの選択肢があった。家康は、大高城を抜け出し、岡崎城へ向かった。岡崎城の北約3kmに大樹寺がある。松平家の先祖が建立した菩提寺だ。岡崎城への道中、織田軍に追撃された家康は大樹寺へ逃げ込み、自害しようとしたという。この時住職は「厭離穢土 欣求浄土」と言って家康を諌めた。平和を願った松平家代々の願いをここで断ち切るのかと、住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと伝わる。岡崎城に入った家康は、桶狭間の戦いから9ヶ月後、織田信長と和睦、名を元康から家康へ改めた。家康は、今川氏へ従属を断ち、一国一城の主となる道を選んだ。家康は自らの旗印に「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻んだ。
[ 02:38:28 - 02:42:40 ] 252秒 詳細
桶狭間の戦いは、家康が19歳のとき。平山は「桶狭間の戦いは、家康にとって晴天の霹靂。つぶされる危険が出てきた。義元が死んでから危機の連続。この時氏真がくればその後の歴史は変わったはず」という。磯田は「桶狭間が家康の運命を左右した幅だと一番大きいのでは今川義元が生き残っていたらぜんぜん違う」という。萱野は「今でいう平和と当時の平和はちがう」という。
家康 運命の選択 1位 三方ヶ原の戦い [topic=20894184] 詳細
[ 02:42:40 - 02:55:25 ] 765秒 詳細
三方ヶ原の戦いは1572年10月に武田信玄が2万5千の兵を率いて徳川領地へと侵攻したもので、圧倒的劣勢の徳川軍は浜松城での籠城を決める。しかし武田軍は浜松城には向かわず突如西に反転し、家康は武士の誇りにかけて武田軍を追撃する事に決めた。12月22日夕刻に自身が兵を率いて出陣し、背後から武田軍に夜戦を挑んだ。しかし武田軍はこの動きを予見しており、丘の上で徳川軍を待ち構えていた。夜戦は徳川軍の惨敗に終わり、家康は敗走することになった。浜松城周辺には家康を匿うなど同情的な伝承が語り継がれていて、自身の未熟さを実感する戦となった。武田信玄が反転した理由には浜名湖の水軍を抑えて、浜松城を孤立する狙いもあったという。
なぜ家康は”平和”を実現できたのか? [topic=20894198] 詳細
[ 02:55:25 - 03:03:50 ] 505秒 詳細
信長や秀吉ではなく家康だけが平和を実現できたのか。平山さんは、「家康は様々な戦国大名を見てきており、戦い方や都市づくりなどを学び天下に活かす術に長けていた。徳川幕府は家康が基盤にしたものを後継者らが発展させて成功させていった」などと語った。萱野さんは、「信長からは戦争や合戦で勝つ方法、秀吉からは戦争を違法化することを学んでいた」などと語った。中野さんは、「家康は香道をしていて”月の下風”という香木を好んでいた。聞香すると枯れた渋い香りで、豪華絢爛とは対極にある人だというのがよく分かるもの。権威の使いかたが巧みだった」などと語った。小和田さんは、「家康は17歳の初陣から亡くなる1年前まで戦いの連続であり、戦いがない時代になれば良いという思いを持ち続けていた。征夷大将軍になった直後に制定した定めの中で”百姓をむざと殺すまじく候”などと命の大切さをうたっていた」などと語った。磯田さんは、「政治は意思の強要だが、やられる相手も思うことがある。家康は落としどころがうまく、両方が勝ちすぎない・負けすぎない線引を探すのがうまかった」などと語った。

(エンディング) [corner=14113542]
エンディング [topic=20894203] 詳細
[ 03:03:50 - 03:04:00 ] 10秒 詳細
エンディング映像。