番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240713 > エピソード: 1331039

エピソード情報

放送局 NHK総合大阪
プログラム名 かんさい熱視線
エピソード名 そこに街ができた〜“アメ村のママ”と大阪〜
カテゴリ 教育教養
放送時間 2024-07-13 11:25:00 〜 2024-07-13 11:54:00
WireActionデータ更新時刻 2024-07-13 17:26:26

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=11513227]
そこに街ができた “アメ村のママ”と大阪 [topic=17550611] 詳細
[ 11:25:00 - 11:27:27 ] 147秒 詳細
かつて“アメ村のママ”と呼ばれた日限萬里子さん。大阪・ミナミのアメリカ村ができるきっかけを作ったとされる。うめきたの再開発・御堂筋の歩道拡張工事、なんば駅前の広場、来年4月に迫る大阪・関西万博を前に大阪では新たな街づくりが進んでいる。文化と流行の発信地「アメ村」、街作りが注目される今魅力の源泉に迫る。

そこに街ができた ~“アメ村のママ”と大阪~ [corner=11513228]
そこに街ができた “アメ村のママ”と大阪 [topic=17550612] 詳細
[ 11:27:27 - 11:52:00 ] 1473秒 詳細
7月、アメ村は音楽に包まれていた。170組のバンドが参加した音楽フェスに総勢5,000人のファンが酔いしれた。ライブハウスが15軒ほどあるアメ村。表現する場を求めてバンドとそのファンがこの街に集う。アメ村にはそこにしかない何かを求めて休みの日には20万人以上が集まる。なぜアメ村は人をひきつけるのか。編集者で神戸松蔭女子学院大学教授・江弘毅さんはアメ村の成り立ちにヒントがあると語った。江さんは「行政とか電鉄が街を計画してランドマークを建てて賃料を取ったりするが、アメ村はそれが全く無い」などと話した。そのきっかけとなったのが“アメ村のママ”と呼ばれた日限萬里子さんである。日限萬里子さんはどんな人物だったのか、間寛平さんは「吉本入りたい言うたら、社員を紹介してくれるなどお願い事したら一生懸命になってくれる人だった」などと話した。当時三角公園周辺は倉庫や事務所が立ち並ぶ地域で、店もなく人通りも疎らな場所だった。1969年、日限萬里子さんはカフェ「LOOP」を作り、アメリカの西海岸風のテイストをいち早く取り入れ、若者の間で瞬く間に知られるようになった。1970年の大阪万博を控え、大阪の街は激変していた。万博の建造の影で日限がいた倉庫街でも変化が起きていた。古着屋や中古レコード店など当時珍しかった店も出来ていった。この中古レコード店を始めたのが回陽豊一さんで当時は家賃が安かったため、この地域でも若者は店を出しやすかったという。回陽さんは「いい意味での人のつながりができていた」などと話した。日限さんがカフェを始めて以来、時間と共に店が増え続け、人はいつしかアメリカ村と呼ぶようになった。一緒に仕事をした弟・日限満彦さん(78)は「ないものねだりがすごい強い人だった。ないものを自分で作ってでもやりたいという本質やった部分もある」などと話した。日限萬里子さんが生まれたのは大阪・ミナミのど真ん中で日限さんはアメリカ村を若者が何でも挑戦できる場にしたいと考えていた。ラジオDJのマーキーさん(71)はアメ村で唯一無二の経験をしたと語る1人である。マーキーさんは「最高の実験場」などと話した。アメ村ができて半世紀、街は時代の移ろいと共に変化し続けてきた。その後土地信託事業などでアメ村の全体の地価が上昇した。日限さんは54歳の時がんを患った。病を抱えながら自らのこだわりをあるビルにかけた。デザイナー・間宮吉彦さん(66)は日限さんのイメージをデザインに落とし込んだ。半世紀を超えて人を引き付けてきたアメ村。街の魅力をどう進化させるのか、アメ村を拠点とするミュージシャン・儀間健太さん(32)は考え続けている。バンド結成から13年、儀間さんはアメ村で新たな出会いを生み出すため、後輩のバンドや飛び込みのミュージシャンを交えたライブを企画した。儀間さんは「ここに来て音楽聴いて、酒飲んで、またこの先の未来に形になったとかきっかけになったりする」などと話した。アメ村のシンボルとして長年親しまれてきた壁画を描いたイラストレーター・黒田征太郎さん(85)はアメ村の魅力の源泉について「忘れてはいけない物語を掘り起こしていくときの目印の1つに日限さんという人がいるのは悪くない」などと話した。