番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240713 > エピソード: 1330959

エピソード情報

放送局 NHK総合大阪
プログラム名 浮世絵ミステリー
エピソード名 「東京前夜〜広重の暗号〜」
カテゴリ 教育教養
放送時間 2024-07-13 09:00:00 〜 2024-07-13 10:00:00
WireActionデータ更新時刻 2024-07-15 04:00:39

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=11512632]
オープニング [topic=17549881] 詳細
[ 09:00:00 - 09:04:42 ] 282秒 詳細
オープニング映像が流れた。歌川広重の名所江戸百景を読み解くと暗号が解読できると紹介。

浮世絵ミステリー [corner=11512634]
東京前夜 広重の暗号 [topic=17549883] 詳細
[ 09:04:42 - 09:09:22 ] 280秒 詳細
歌川広重の浅草田甫酉の町詣を読み解くと、吉原の遊女の部屋だとわかると紹介。
[ 09:09:22 - 09:16:00 ] 398秒 詳細
1853年に黒船が来校し、幕府は羽田や高輪・鉄砲洲等の湾岸の警備を固め街には緊急事態宣言が出された。江戸ではわらじ・ろうそく・梅干し・味噌等の買い占めが起こった。軍備の立ち遅れを実感した幕府は西洋式の軍事訓練を行うために講武所を設立したことが鉄砲洲築地門跡から読み取れると紹介。歌川広重は画は物の形を本とす。なれば寫真をなして、これに筆意を加うる時はすなわち画なりという言葉を残している。
[ 09:16:00 - 09:23:52 ] 472秒 詳細
1855年に江戸でマグニチュード7程度の直下型地震があり、四方蔵周辺も全焼した。大地震での死者は武家と町人合わせて7000人以上であった。歌川広重は下級武士の家で27歳で家督を譲るまで火消しの任務にあたっていた。歌川広重は八代州の火消屋敷で定火消し同心として家族を養っていた。22歳のときには小川町の火事で活躍し評価されるほど火事と戦っていた。安政の大地震では30ヶ所以上で火災が発生し、特に四方蔵周辺で最も大きな被害が出た。市中繁栄七夕祭では被災からの復興が暗号として読み取れると紹介。通常町人が江戸城内に入ることは禁止されていたが山王祭のときのみ、山車を持って半蔵門から入ることが許されていた。安政の大地震で半蔵門は石垣が崩れる被害に遭っており、山王祭の際は半蔵門が復興工事中で歌川広重は被害の様を描かないようにしていた。
[ 09:23:52 - 09:29:44 ] 352秒 詳細
江戸時代の上野は焦点や屋台が軒を連ねる繁華街で、当時から指折りの呉服商として松坂屋があった。松坂屋の建物は地震で全壊して大きな被害を受けたが、崩れた跡地を被災者支援の炊き出しの場所としていた。江戸では天災後の寄付が盛んで富裕層から多くの寄付があったことが瓦版から読み取れ、街全体の復興無くして商いの復活もなしという考えが広まっていた。炊き出しをした松坂屋は大いに株を上げ、再開時のセールには多くの人が詰めかけたという。幕府も被災者支援に乗り出しており、お救い小屋と呼ばれる公営の避難所を開設して7日間で20万食の握り飯を配った。下谷廣小路からは江戸の身分や立場を超えた助け合いが読み取れると紹介。
[ 09:29:44 - 09:35:44 ] 360秒 詳細
歌川広重の名所江戸百景で描かれた場所には中心地から離れた場所もあるが、それらはいずれも9割が水辺で描かれたものである。水辺は舟遊びや花火があって人があつまる娯楽の場あった。江戸湾南の大森では海苔の養殖が行われ、浅草のりの一大産地であった。幕府は当時、ペリー来航を受けて品川付近の海を埋め立てた御大場の建設を行っていた。
[ 09:35:44 - 09:44:11 ] 507秒 詳細
御大場の建設は6基の砲台を建設する大規模なプロジェクトで、建設には膨大な量の土砂が必要であったために幕府が目をつけたのが御殿山である。御殿山の崖は台場建設のために削られた跡で山の半分が削り取られた。歌川広重は遅咲きの絵師として知られ、絵描きはじめは美人画や役者絵を手がけるも鳴かず飛ばずであった。35歳の頃に東都名所に御殿山の桜を描いたことで名所絵に自分の道を見出して火消しをやめたという。御殿山の桜は植樹されたもので、東都名所が描かれる数年前に幕府と町人が協力して200本近くの桜が埋められた。広重の桜は常に海を望む方向から桜が描かれ、町人と武家の人間が同じ場所で桜を見に訪れている様が描かれている。御殿山は元々将軍縁の地であったが八代将軍吉宗公が人々に解放した。台場の莫大な建設費のため幕府は町人1300人に30万両を拠出させ、土を運ぶために地元の人の仕事道具である舟2000艘を徴収した。
[ 09:44:11 - 09:54:35 ] 624秒 詳細
歌川広重は生涯に江戸の風景を1000枚以上描いており、その上で人生の最後に名所江戸百景を描いた。当時の安政は開国派と攘夷派とが対立して貧富の格差が拡大する先の見えない不安が広がっていた。小名木川は人工の水路で、千葉の行徳の浜辺から江戸に塩を運ぶための重要な水路であった。小名木川の先には利根川があり、利根川と通じて関東全域の物資が江戸の中心に流れるため中川番所は江戸への玄関口であった。江戸は家康が秀吉から領地替えをされた当初は不毛な土地であったが、そこを260年かけて切り開きインフラ整備を繰り返したことで添加の大都市へ発展していった。名所江戸百景には筏乗りの姿が数多く描かれ、木場は当初なにもない土地であったが日本全国の技術者が集められて材木商等がお上の目の届きづらい材木産地とした。小名木川を開拓したのも移住してきた小名木四郎兵衛という人物だと紹介。
[ 09:54:35 - 09:58:30 ] 235秒 詳細
1858年に名所江戸百景が大評判となる中で歌川広重は亡くなった。江戸が東京になって150年で少しずつ風景を変えながらも続いている。高輪には明治になると日本最初の鉄道が通り、2020年には高輪ゲートウェイ駅が誕生して未来の街を作るための実証実験が行われている。御殿山は線路建設のために更に削られてしまい周辺は住宅やオフィスビルが立ち並んでいる。その一角は崖の高低差を生かした庭園として平成に整備され、滝は広重が描いた崖の名残になっていると紹介。

(エンディング) [corner=11512638]
エンディング [topic=17549902] 詳細
[ 09:58:30 - 09:59:00 ] 30秒 詳細
エンディング映像。