番組詳細
TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240530 > エピソード: 1321213
エピソード情報
放送局 | NHK総合大阪 |
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プログラム名 | 映像の世紀バタフライエフェクト |
エピソード名 | カラシニコフ銃1億丁 史上最悪の殺人兵器 |
カテゴリ | 教育教養 |
放送時間 | 2024-05-30 23:50:00 〜 2024-05-31 00:35:00 |
WireActionデータ更新時刻 | 2024-05-31 00:57:35 |
コーナー・トピック・パラグラフ
(オープニング)
[corner=11410754]
今回は…
[topic=17397604]
詳細
[
23:50:00
-
23:53:40
]
220秒
詳細
2023年10月7日、イスラエルで開催された音楽祭。突如、銃声が響き渡りイスラム組織ハマスが襲撃し364人が死亡し、40人が人質となった。戦闘員が手にしているのは人類史上最も人を殺したといわれるカラシニコフ銃。全世界で推定1億丁が作られた。誰にでも扱えて壊れにくい。10ドルから入手でき”貧者の兵器”と言われてきた。開発したのはソ連の銃器設計者のミハイル・カラシニコフ。海外から悪魔の銃の父と非難される一方で母国・ソ連では英雄として称賛される。カラシニコフ銃はソ連を飛び出しベトナム戦争でアメリカを打ち破った。さらに拡大しアフリカ各地の内戦では双方がカラシニコフ銃で無差別殺戮を繰り返し、簡単に扱える銃は子どもを兵士に変えた。そしてテロリストの憎しみにも取り付き世界を恐怖に陥れた。
2023年10月7日、イスラエルで開催された音楽祭。突如、銃声が響き渡りイスラム組織ハマスが襲撃し364人が死亡し、40人が人質となった。戦闘員が手にしているのは人類史上最も人を殺したといわれるカラシニコフ銃。全世界で推定1億丁が作られた。誰にでも扱えて壊れにくい。10ドルから入手でき”貧者の兵器”と言われてきた。開発したのはソ連の銃器設計者のミハイル・カラシニコフ。海外から悪魔の銃の父と非難される一方で母国・ソ連では英雄として称賛される。カラシニコフ銃はソ連を飛び出しベトナム戦争でアメリカを打ち破った。さらに拡大しアフリカ各地の内戦では双方がカラシニコフ銃で無差別殺戮を繰り返し、簡単に扱える銃は子どもを兵士に変えた。そしてテロリストの憎しみにも取り付き世界を恐怖に陥れた。
オープニング
[topic=17397605]
詳細
[
23:53:40
-
23:54:10
]
30秒
詳細
オープニング映像。
オープニング映像。
(映像の世紀バタフライエフェクト)
[corner=11410755]
カラシニコフ銃1億丁 史上最悪の殺人兵器
[topic=17397606]
詳細
[
23:54:10
-
23:59:15
]
305秒
詳細
1941年6月22日、ナチス・ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まった。農家出身のミハイル・カラシニコフも戦車兵として戦うも、猛攻を受け負傷。ドイツ軍はこの戦争に殺傷能力の高い新型の銃を投入していた。治療を受けながら銃の専門書を読みふけり独学で設計に取り組んだ。農家に生まれたカラシフニコは道具は誰にでも扱えて頑丈でなければならないと感がていた。6年間の試行錯誤の末、開発した銃は軍の試験に合格しカラシニコフ銃が完成した。これまで銃は隙間なく精密に作るのが常識だったが、カラシフニコは部品を極限まで削減し少ない部品で単純な構造にして簡単に組み立てられるシンプルさを目指した。さらに部品の合間にあえて隙間を設けることで水や砂が入っても自然に排出され、過酷な環境下でも毎分600発の速度で自動的に連射できた。また部品に誤差があっても組み立てられるので安価に製造できた。
1941年6月22日、ナチス・ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まった。農家出身のミハイル・カラシニコフも戦車兵として戦うも、猛攻を受け負傷。ドイツ軍はこの戦争に殺傷能力の高い新型の銃を投入していた。治療を受けながら銃の専門書を読みふけり独学で設計に取り組んだ。農家に生まれたカラシフニコは道具は誰にでも扱えて頑丈でなければならないと感がていた。6年間の試行錯誤の末、開発した銃は軍の試験に合格しカラシニコフ銃が完成した。これまで銃は隙間なく精密に作るのが常識だったが、カラシフニコは部品を極限まで削減し少ない部品で単純な構造にして簡単に組み立てられるシンプルさを目指した。さらに部品の合間にあえて隙間を設けることで水や砂が入っても自然に排出され、過酷な環境下でも毎分600発の速度で自動的に連射できた。また部品に誤差があっても組み立てられるので安価に製造できた。
[
23:59:15
-
00:12:45
]
810秒
詳細
1949年、スターリンは功績をたたえ最高の栄誉であるスターリン賞をカラシフニコに贈った。そしてスターリンはカラシフニコ銃の存在を徹底して秘匿した。国内だけで製造しソ連軍だけが使用できる銃として情報が漏れぬよう細心の注意を払った。1953年にスターリンが死去。ハンガリーで市民が自由を求め蜂起した。ソ連は制圧に挑む際に持っていたのがカラシフニコ銃。配備は一部だけだったので映像はほぼない。しかし反撃したハンガリー市民がソ連兵から銃を奪う様子が捉えられていた。開発から9年、謎に包まれていた存在が公となった瞬間だった。数少ない銃を手に市民は抵抗を続けるも、ソ連は本格的な軍事介入からわずか1週間でハンガリーを制圧した。このときから極秘扱いだったカラシフニコ銃が東側陣営に広がり始める。1955年、軍事同盟ワルシャワ条約機構を成立させるとフルシチョフは軍事援助に踏み切った。軍事援助の目玉として供与したのはカラシフニコ銃。製造技術も公開し、東欧5ヵ所で製造工場が建設され製造が始まった。さらに友好国の中国にも製造技術を提供し中国製カラシフニコ銃の56式自動歩槍が誕生した。1960年代、カラシフニコ銃は初めて大規模な戦場に導入された。ベトナム戦争である。ソ連や中国から提供された銃を手にしたのは南ベトナム開放民族戦線だった。対するアメリカはカラシフニコ銃に対抗し最新の自動小銃を部隊に配備した。M16を開発したのはユージン・ストーナー。アメリカは戦いを楽観視していたが、M16は熱帯雨林や沼地という過酷な環境でが作動不良に陥った。一方、カラシフニコ銃は乱雑に扱っても壊れなかった。アメリカ兵の中にはカラシフニコ銃を奪い使う兵士も現れた。1968年、ゲリラがアメリカ大使館を包囲しテト攻勢が始まった。5万人以上のぎ性を出したアメリカはベトナムから撤退し、アメリカは初めて戦争に負けた。
1949年、スターリンは功績をたたえ最高の栄誉であるスターリン賞をカラシフニコに贈った。そしてスターリンはカラシフニコ銃の存在を徹底して秘匿した。国内だけで製造しソ連軍だけが使用できる銃として情報が漏れぬよう細心の注意を払った。1953年にスターリンが死去。ハンガリーで市民が自由を求め蜂起した。ソ連は制圧に挑む際に持っていたのがカラシフニコ銃。配備は一部だけだったので映像はほぼない。しかし反撃したハンガリー市民がソ連兵から銃を奪う様子が捉えられていた。開発から9年、謎に包まれていた存在が公となった瞬間だった。数少ない銃を手に市民は抵抗を続けるも、ソ連は本格的な軍事介入からわずか1週間でハンガリーを制圧した。このときから極秘扱いだったカラシフニコ銃が東側陣営に広がり始める。1955年、軍事同盟ワルシャワ条約機構を成立させるとフルシチョフは軍事援助に踏み切った。軍事援助の目玉として供与したのはカラシフニコ銃。製造技術も公開し、東欧5ヵ所で製造工場が建設され製造が始まった。さらに友好国の中国にも製造技術を提供し中国製カラシフニコ銃の56式自動歩槍が誕生した。1960年代、カラシフニコ銃は初めて大規模な戦場に導入された。ベトナム戦争である。ソ連や中国から提供された銃を手にしたのは南ベトナム開放民族戦線だった。対するアメリカはカラシフニコ銃に対抗し最新の自動小銃を部隊に配備した。M16を開発したのはユージン・ストーナー。アメリカは戦いを楽観視していたが、M16は熱帯雨林や沼地という過酷な環境でが作動不良に陥った。一方、カラシフニコ銃は乱雑に扱っても壊れなかった。アメリカ兵の中にはカラシフニコ銃を奪い使う兵士も現れた。1968年、ゲリラがアメリカ大使館を包囲しテト攻勢が始まった。5万人以上のぎ性を出したアメリカはベトナムから撤退し、アメリカは初めて戦争に負けた。
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00:12:45
-
00:25:00
]
735秒
詳細
1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。迎え撃つのはイスラム義勇兵、支援したのはアメリカ。ベトナム戦争の復讐と考えたアメリカは60億ドルの資金と武器を提供した。提供した武器には大量のカラシフニコ銃が含まれ約40万丁といわれ主に中国製だった。当時、ソ連と中国は関係が悪化し、アメリカは利用し中国から銃を入手しイスラム義勇兵を与えていた。義勇兵の中にはウサーマ・ビンラディンがいた。イスラム義勇兵たちはカラシフニコ銃を手にゲリラ戦を展開し、ソ連兵は時刻が開発した銃口が向けられた。アフガン侵攻はソ連のベトナム戦争となった。1989年、ソ連は完全撤退し10年に渡る戦争に負けた。その2年後、経済が疲弊したソ連は崩壊した。ソ連崩壊はカラシフニコ銃放出を招き、暗躍する武器商人が現れた。ビクトル・ボウトはソ連崩壊の混乱を利用し、軍の航空機を手に入れ貨物輸送の会社を設立した。合法的な輸送を請け負う裏側で武器売買を始めた。不況にあえぐ東欧諸国にとって武器輸出は機長な収入源であった。ボウトが仕入れた武器を売りつけたのはアフリカだった。冷戦時代、アフリカ各地で米ソ代理戦争が度々起こっていた。米ソはアフリカに大量の武器をばらまいていたが冷戦終結とともにアフリカから手を引き武器だけが残され内戦は激しさを増す。武器商人・ボウトのビジネスチャンスとなり、両陣営に武器を売りつけ内戦はさらにエスカレート。ボウトの悪名は世界に轟いた。武器流入によりアフリカの内戦は長期化。戦場に駆り出されるようになったのは子ども。子どもたちを兵士に変えたのはカラシフニコ銃だった。カラシフニコ銃はアフリカで扮装が起こるたびに流通量が増加し、国にっては1丁10ドルで手に入る手軽な武器となった。アフリカの内戦を煽る武器を開発したカラシフニコに批判が集まった。退役後も武器メーカーで開発を続けていた。
1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。迎え撃つのはイスラム義勇兵、支援したのはアメリカ。ベトナム戦争の復讐と考えたアメリカは60億ドルの資金と武器を提供した。提供した武器には大量のカラシフニコ銃が含まれ約40万丁といわれ主に中国製だった。当時、ソ連と中国は関係が悪化し、アメリカは利用し中国から銃を入手しイスラム義勇兵を与えていた。義勇兵の中にはウサーマ・ビンラディンがいた。イスラム義勇兵たちはカラシフニコ銃を手にゲリラ戦を展開し、ソ連兵は時刻が開発した銃口が向けられた。アフガン侵攻はソ連のベトナム戦争となった。1989年、ソ連は完全撤退し10年に渡る戦争に負けた。その2年後、経済が疲弊したソ連は崩壊した。ソ連崩壊はカラシフニコ銃放出を招き、暗躍する武器商人が現れた。ビクトル・ボウトはソ連崩壊の混乱を利用し、軍の航空機を手に入れ貨物輸送の会社を設立した。合法的な輸送を請け負う裏側で武器売買を始めた。不況にあえぐ東欧諸国にとって武器輸出は機長な収入源であった。ボウトが仕入れた武器を売りつけたのはアフリカだった。冷戦時代、アフリカ各地で米ソ代理戦争が度々起こっていた。米ソはアフリカに大量の武器をばらまいていたが冷戦終結とともにアフリカから手を引き武器だけが残され内戦は激しさを増す。武器商人・ボウトのビジネスチャンスとなり、両陣営に武器を売りつけ内戦はさらにエスカレート。ボウトの悪名は世界に轟いた。武器流入によりアフリカの内戦は長期化。戦場に駆り出されるようになったのは子ども。子どもたちを兵士に変えたのはカラシフニコ銃だった。カラシフニコ銃はアフリカで扮装が起こるたびに流通量が増加し、国にっては1丁10ドルで手に入る手軽な武器となった。アフリカの内戦を煽る武器を開発したカラシフニコに批判が集まった。退役後も武器メーカーで開発を続けていた。
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00:25:00
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00:34:12
]
552秒
詳細
戦争の世紀と呼ばれた20世紀も終わり人々は平和への希望を託した21世紀の幕が開ける。だが2001年9月11日、アメリカを同時多発テロが襲う。テロの首謀者はオサマ・ビンラディン。かつてソ連と戦うイスラム義勇兵としてアメリカが支援した男である。ビンラディンの敵は共産主義からアメリカに変わった。ビンラディンの傍らにカラシフニコ銃がある。かつてアメリカが与えた銃がアメリカを脅かすテロの象徴となる。ビンラディン率いるアルカイダに武器を供給していると疑われているのは武器商人のビクトル・ボウト。2002年、別容疑で国際手配されるも1週間後にロシアのラジオ局に姿を現した。その6年後、アメリカのおとり捜査の取引現場を証拠としてボウトは逮捕された。しかし1人の武器商人を捕らえても解き放たれたカラシフニコ銃の拡散が止まることがない。カラシフニコ銃は各地で打倒アメリカの象徴となっていた。ISは自らカラシフニコ銃の製造を行なっていたといわれ、テロ攻撃が頻発し市民を恐怖に陥れる。2013年12月23日、ミハイル・カラシニコフは94歳でその生涯を終えた。葬儀は国葬となりプーチン大統領も出席した。プーチン大統領はカラシフニコ銃を現代の芸術と称賛し、現在も製造する工場に度々足を運ぶ。ロシアは今も尚、国を上げて銃のライセンスを売り込んでいる。2017年にアメリカ製のカラシフニコ銃も生産された。度々、アメリカで起こる銃乱射事件で多く使われたのはカラシフニコ銃。2019年の事件では23人が命を落とした。2022年のウクライナ侵攻でもカラシフニコ銃は両陣営で使用されている。誰でも簡単に扱える銃は戦果の消えない世界で重宝され続けている。戦争のさなか、アメリカ女子プロバスケットボール選手との囚人交換で武器商人のビクトル・ボウトは帰国した。帰国後、政治家に転身しプーチン大統領の熱狂的支持者となった。国連の報告によるとカラシフニコ銃を含む小型武器は今も尚、毎年20万人以上の命を奪い続けている。2024年3月、モスクワのコンサートホールを襲ったテロ事件でも犯行に使われたのはカラシフニコ銃だった。
戦争の世紀と呼ばれた20世紀も終わり人々は平和への希望を託した21世紀の幕が開ける。だが2001年9月11日、アメリカを同時多発テロが襲う。テロの首謀者はオサマ・ビンラディン。かつてソ連と戦うイスラム義勇兵としてアメリカが支援した男である。ビンラディンの敵は共産主義からアメリカに変わった。ビンラディンの傍らにカラシフニコ銃がある。かつてアメリカが与えた銃がアメリカを脅かすテロの象徴となる。ビンラディン率いるアルカイダに武器を供給していると疑われているのは武器商人のビクトル・ボウト。2002年、別容疑で国際手配されるも1週間後にロシアのラジオ局に姿を現した。その6年後、アメリカのおとり捜査の取引現場を証拠としてボウトは逮捕された。しかし1人の武器商人を捕らえても解き放たれたカラシフニコ銃の拡散が止まることがない。カラシフニコ銃は各地で打倒アメリカの象徴となっていた。ISは自らカラシフニコ銃の製造を行なっていたといわれ、テロ攻撃が頻発し市民を恐怖に陥れる。2013年12月23日、ミハイル・カラシニコフは94歳でその生涯を終えた。葬儀は国葬となりプーチン大統領も出席した。プーチン大統領はカラシフニコ銃を現代の芸術と称賛し、現在も製造する工場に度々足を運ぶ。ロシアは今も尚、国を上げて銃のライセンスを売り込んでいる。2017年にアメリカ製のカラシフニコ銃も生産された。度々、アメリカで起こる銃乱射事件で多く使われたのはカラシフニコ銃。2019年の事件では23人が命を落とした。2022年のウクライナ侵攻でもカラシフニコ銃は両陣営で使用されている。誰でも簡単に扱える銃は戦果の消えない世界で重宝され続けている。戦争のさなか、アメリカ女子プロバスケットボール選手との囚人交換で武器商人のビクトル・ボウトは帰国した。帰国後、政治家に転身しプーチン大統領の熱狂的支持者となった。国連の報告によるとカラシフニコ銃を含む小型武器は今も尚、毎年20万人以上の命を奪い続けている。2024年3月、モスクワのコンサートホールを襲ったテロ事件でも犯行に使われたのはカラシフニコ銃だった。