番組詳細
TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240205 > エピソード: 1294728
エピソード情報
放送局 | NHK総合大阪 |
---|---|
プログラム名 | ファミリーヒストリー |
エピソード名 | アンコール柳葉敏郎〜亡き父の絵 59歳で姉を知る〜 |
カテゴリ | 教育教養 |
放送時間 | 2024-02-05 19:57:00 〜 2024-02-05 20:42:00 |
WireActionデータ更新時刻 | 2024-02-05 23:13:34 |
コーナー・トピック・パラグラフ
(オープニング)
[corner=11141549]
オープニング
[topic=17007634]
詳細
[
19:57:00
-
19:59:15
]
135秒
詳細
今日のゲストは柳葉敏郎。これまで過去を振り返ることのないがむしゃら人生だったが、還暦を目前にして自分のルーツを何もしらないことが気になりだした。
今日のゲストは柳葉敏郎。これまで過去を振り返ることのないがむしゃら人生だったが、還暦を目前にして自分のルーツを何もしらないことが気になりだした。
柳葉敏郎
[corner=11141550]
母型のルーツ 佐々木家の謎
[topic=17007635]
詳細
[
19:59:15
-
20:02:44
]
209秒
詳細
柳葉敏郎の父・山田四郎、母・和子。結婚式は挙げておらず、記念の写真だけが残っていた。2人は秋田市に暮らし敏郎を授かった。しかし敏郎が8歳の時に四郎は脳出血で倒れ38歳で亡くなった。敏郎は母・和子のふるさと、秋田・刈和野で育てられた。母・和子さんは「私が育てたというよりも私の母親が育てた。こういうふうに大きくなってくれればいいやなんてことは一回も思ったことがない。本人はやりたいことをなるべくやらせる。そういう気持ちが強かった」などと話した。それだけ仕事が忙しかったという。まずは母方のルーツから探った。母・和子の実家を訪れ、敏郎の叔父にあたる、佐々木孝雄さん、トモ子さんに話しを聞いた。祖母の絹は敏郎命だったという。祖母・絹の実家、佐々木家を訪れた。佐々木家は昔から「ヤマモ」という屋号で呼ばれてきた。代々伝わる「お椀」には「ヤマモ」の印が書かれていた。山形から流れてきた山伏で山形から来た最上のモだという。
柳葉敏郎の父・山田四郎、母・和子。結婚式は挙げておらず、記念の写真だけが残っていた。2人は秋田市に暮らし敏郎を授かった。しかし敏郎が8歳の時に四郎は脳出血で倒れ38歳で亡くなった。敏郎は母・和子のふるさと、秋田・刈和野で育てられた。母・和子さんは「私が育てたというよりも私の母親が育てた。こういうふうに大きくなってくれればいいやなんてことは一回も思ったことがない。本人はやりたいことをなるべくやらせる。そういう気持ちが強かった」などと話した。それだけ仕事が忙しかったという。まずは母方のルーツから探った。母・和子の実家を訪れ、敏郎の叔父にあたる、佐々木孝雄さん、トモ子さんに話しを聞いた。祖母の絹は敏郎命だったという。祖母・絹の実家、佐々木家を訪れた。佐々木家は昔から「ヤマモ」という屋号で呼ばれてきた。代々伝わる「お椀」には「ヤマモ」の印が書かれていた。山形から流れてきた山伏で山形から来た最上のモだという。
母方の祖父 海軍に志願
[topic=17007636]
詳細
[
20:02:44
-
20:10:26
]
462秒
詳細
昭和10年、絹は敏郎の祖父である佐々木子之助と見合い結婚した。子之助と絹の間に生まれたのが、敏郎の母・和子だった。海軍時代の子之助の形見を紹介した。子之助は昭和3年に横須賀海兵団に入団した。子之助は心像地区の農家の長男。兄妹が多かったため口減らしのために海兵団に志願したという。家の田畑は姉に委ねた。その孫の代、房子らがいまも農業を続けている。子之助は四等水兵から始まり下士官となった。36歳のときには海軍兵曹長で高給取りだった。日中戦争のときは、砲艇「小桜」に乗り込み揚子江を溯った。太平洋戦争では駆逐艦「満潮」に乗り込んだ。終戦後、子之助はふるさとに帰ったが仕事のあてはなかったので東京に出稼ぎに出たという。子之助と絹の子どもは6人で一番上が和子。後の敏郎の母。和子は秋田大学に入学し奨学金を返さなくてもいいという条件で先生になったという。小学校の教師になり程なくして、敏郎の父である山田四郎と出会った。
昭和10年、絹は敏郎の祖父である佐々木子之助と見合い結婚した。子之助と絹の間に生まれたのが、敏郎の母・和子だった。海軍時代の子之助の形見を紹介した。子之助は昭和3年に横須賀海兵団に入団した。子之助は心像地区の農家の長男。兄妹が多かったため口減らしのために海兵団に志願したという。家の田畑は姉に委ねた。その孫の代、房子らがいまも農業を続けている。子之助は四等水兵から始まり下士官となった。36歳のときには海軍兵曹長で高給取りだった。日中戦争のときは、砲艇「小桜」に乗り込み揚子江を溯った。太平洋戦争では駆逐艦「満潮」に乗り込んだ。終戦後、子之助はふるさとに帰ったが仕事のあてはなかったので東京に出稼ぎに出たという。子之助と絹の子どもは6人で一番上が和子。後の敏郎の母。和子は秋田大学に入学し奨学金を返さなくてもいいという条件で先生になったという。小学校の教師になり程なくして、敏郎の父である山田四郎と出会った。
スタジオトーク
[topic=17007637]
詳細
[
20:10:26
-
20:11:24
]
58秒
詳細
柳葉敏郎は「全部新鮮なことだった。女性が強いが、その方がいいのかもしれない。でもじいちゃんは尻には敷かれていなかった。 出稼ぎにでかける時、絹ばあちゃんが朝早くに起こしてくれてじいちゃんの靴磨けと言われて、お駄賃がもらえるとおもって磨いた時を思い出した。」と語った。
柳葉敏郎は「全部新鮮なことだった。女性が強いが、その方がいいのかもしれない。でもじいちゃんは尻には敷かれていなかった。 出稼ぎにでかける時、絹ばあちゃんが朝早くに起こしてくれてじいちゃんの靴磨けと言われて、お駄賃がもらえるとおもって磨いた時を思い出した。」と語った。
亡き父・山田四郎 幻の絵を追う
[topic=17007638]
詳細
[
20:11:24
-
20:20:04
]
520秒
詳細
柳葉敏郎の母は、父と敏郎の写真を探すも見当たらなかった。母と敏郎の写真もほとんどない。敏郎が8歳のときに死別した父。父は昭和6年、秋田市に生まれた。大工の家系で手先が器用で、絵が書くことが得意だった。フリーランスの看板描きをしており、秋田県美術展覧会に作品を応募して入選もしていた。
柳葉敏郎の母は、父と敏郎の写真を探すも見当たらなかった。母と敏郎の写真もほとんどない。敏郎が8歳のときに死別した父。父は昭和6年、秋田市に生まれた。大工の家系で手先が器用で、絵が書くことが得意だった。フリーランスの看板描きをしており、秋田県美術展覧会に作品を応募して入選もしていた。
[
20:20:04
-
20:22:04
]
120秒
詳細
柳葉敏郎の父の描いた絵が発見された。秋田の名所・小安峡を描いたものだ。昭和36年に敏郎が誕生し、翌年には妹も生まれた。この頃に、菓子屋の包装紙のデザインを請け負っていた。包装紙には秋田名物の数々が描かれていた。しかし、父の給料は母に一度も渡されたことはなかったという。敏郎が5歳の頃に別居し、昭和44年に父は亡くなった。火葬場の点火をしたのは敏郎だった。
柳葉敏郎の父の描いた絵が発見された。秋田の名所・小安峡を描いたものだ。昭和36年に敏郎が誕生し、翌年には妹も生まれた。この頃に、菓子屋の包装紙のデザインを請け負っていた。包装紙には秋田名物の数々が描かれていた。しかし、父の給料は母に一度も渡されたことはなかったという。敏郎が5歳の頃に別居し、昭和44年に父は亡くなった。火葬場の点火をしたのは敏郎だった。
スタジオトーク
[topic=17007639]
詳細
[
20:22:04
-
20:22:36
]
32秒
詳細
柳葉敏郎は「今日見た絵は初めて見ました。全てがなんか小さなところで全部つながっている。一緒に酒飲みたかったですよね」などと話した。
柳葉敏郎は「今日見た絵は初めて見ました。全てがなんか小さなところで全部つながっている。一緒に酒飲みたかったですよね」などと話した。
亡き父の真実 会ったことのない…
[topic=17007640]
詳細
[
20:22:36
-
20:32:30
]
594秒
詳細
父・山田四郎。今回の取材で新たに見つかった四郎の絵は4作品にのぼった。四郎は和子と結婚する以前に別の女性と結婚していた。山田家の人々は知っていたがあえて口にせず敏郎と接してきた。相手の名は佐藤京子。昭和32年に結婚したが金銭的な問題から2年ほどで離婚したが、長女・ひとみをもうけていた。敏郎には母親違いの姉がいたことが判明した。番組スタッフは手がかりをもとめ秋田・象潟を訪ね親子を知る人物が見つかり、親子ともに健在だということが分かった。四郎と離婚後、京子さんは再婚していて、四郎のその後は知らないという。ひとみさんは結婚し母の世話をしながらこの街で暮らしてきた。最初の取材は録音だけが許された。番組スタッフは四郎はその後結婚して、長男が柳葉敏郎だと教えた。ひとみさんは「びっくり まだ信じられないです」などと話した。別の日、ひとみさんは手だけが写った写真を見せてくれた。少しずつカメラをむけることを許してくれ、納屋の二階に案内してくれた。そこにはひとみさんの母と四郎が使っていた食器棚があった。ガラスの装飾は四郎が書いたものだった。
父・山田四郎。今回の取材で新たに見つかった四郎の絵は4作品にのぼった。四郎は和子と結婚する以前に別の女性と結婚していた。山田家の人々は知っていたがあえて口にせず敏郎と接してきた。相手の名は佐藤京子。昭和32年に結婚したが金銭的な問題から2年ほどで離婚したが、長女・ひとみをもうけていた。敏郎には母親違いの姉がいたことが判明した。番組スタッフは手がかりをもとめ秋田・象潟を訪ね親子を知る人物が見つかり、親子ともに健在だということが分かった。四郎と離婚後、京子さんは再婚していて、四郎のその後は知らないという。ひとみさんは結婚し母の世話をしながらこの街で暮らしてきた。最初の取材は録音だけが許された。番組スタッフは四郎はその後結婚して、長男が柳葉敏郎だと教えた。ひとみさんは「びっくり まだ信じられないです」などと話した。別の日、ひとみさんは手だけが写った写真を見せてくれた。少しずつカメラをむけることを許してくれ、納屋の二階に案内してくれた。そこにはひとみさんの母と四郎が使っていた食器棚があった。ガラスの装飾は四郎が書いたものだった。
スタジオトーク
[topic=17007641]
詳細
[
20:32:30
-
20:34:40
]
130秒
詳細
柳葉敏郎は「お姉ちゃんですね。姉がいたというのは嬉しいですね。俺お姉ちゃんとお兄ちゃんがほしかったんですよ。姉がいるなんて全く知らない。会ってみたいですね」などと話した。
柳葉敏郎は「お姉ちゃんですね。姉がいたというのは嬉しいですね。俺お姉ちゃんとお兄ちゃんがほしかったんですよ。姉がいるなんて全く知らない。会ってみたいですね」などと話した。
会ったことのない姉からの手紙
[topic=17007642]
詳細
[
20:34:40
-
20:41:06
]
386秒
詳細
母親が違う、柳葉敏郎の姉。番組は、姉から敏郎宛に手紙を託された。手紙には「父のことを聞くと秋田県内の看板を描く仕事をしていたこと、とてもおしゃれな人だったと教えてくれました。柳葉さんは雲の上の存在です。柳葉さんとのご縁を知り驚きでしたが、同時に父が残してくれた繋がりに感謝しなければいけないと思った。」と綴られていた。今年の3月、姉は父の墓参りをすることができた。
母親が違う、柳葉敏郎の姉。番組は、姉から敏郎宛に手紙を託された。手紙には「父のことを聞くと秋田県内の看板を描く仕事をしていたこと、とてもおしゃれな人だったと教えてくれました。柳葉さんは雲の上の存在です。柳葉さんとのご縁を知り驚きでしたが、同時に父が残してくれた繋がりに感謝しなければいけないと思った。」と綴られていた。今年の3月、姉は父の墓参りをすることができた。
スタジオトーク
[topic=17007643]
詳細
[
20:41:06
-
20:41:30
]
24秒
詳細
柳葉敏郎は「姉弟が増えたって」などと話した。
柳葉敏郎は「姉弟が増えたって」などと話した。
(エンディング)
[corner=11141551]
次回予告
[topic=17007644]
詳細
[
20:41:30
-
20:41:45
]
15秒
詳細
ファミリーヒストリーの番組宣伝。
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